番外編|りんごの里・板柳町のりんごの歴史

板柳町誌 20141115 吉ざえもん農園の歴史
板柳町誌 20141115
板柳町誌 20141115

板柳町誌 20141115

板柳町は「りんごの里」です。なぜそう呼ぶのか、今回は板柳町誌から紹介いたします。

本県(青森県)に初めてりんごの苗木が入ったのは、明治8年(1875年)である。時の内務省勧業寮からアメリカ産の苗木が配布されたのに始まる。その時、青森県へは3本の苗が配布され、勧業方・佐藤庸之助に下渡し試植させた。同年秋さらに75本配布になり、それを仮植えして、翌9年4月区の篤農家に試植させた。北津軽郡ではただ一人五林平・米田慶助に配布になった(配布苗は5本くらいと推定される)。これが板柳町へりんごが入ってきた最初のものと考えられる。この秋にはさらに230本青森県に配布になった。北津軽郡第5大区には6名に配布され、そのうちの4名が板柳の人で、米田慶助(沿川村五林平・地主・戸長)、大森善三郎(弘前士族・板屋野木村に在宅)、佐々木寿作(弘前士族・板屋野木村に在宅)、松山久兵衛(板屋野木村・地主・商業・井筒屋の分家)らであった。
―中略―
井筒屋分家松山伝次郎の三男久兵衛は、板柳のりんご奨励者として忘れることができない。自分の宅地に試植したりんごが好結果であったので、諸方から苗木を取り寄せ板柳の人たちにずいぶん配布奨励したといわれている。そのため、明治10年代に松山久兵衛から分与された2,3本ずつくらいのりんごの木が方々の宅地に植えられた。
―中略―
当時県内の三大農園といわれたのは、藤崎村の「敬業社」(7町5反・菊池三郎)、山形村の「興農会社」(9町7反・渋川伝蔵)、板柳村の「東奥義塾りんご園」(9町6反・吉川泰二郎)であった。―略―(東奥義塾りんご園は)明治41年に経営が完全に失敗し、板柳の安田元吉の手に移ったのである。
※安田元吉―明治末期から大正期の青森県りんご栽培の指導者の一人。明治38年16町歩、41年26町歩と拡張し、県下一のりんご園として有名であった。明治43年には県農会から彰功銀賞を、昭和4年には大日本農会から緑白綬有功賞、同年12月日本帝国から緑綬褒章。

「りんごの里いたやなぎ」、これは、青森県が今のりんご王国となった礎の一端が板柳町にもあったからです。

板柳町誌 本体 20141115

板柳町誌 本体 20141115

板柳町誌 編纂委員会 20141115

板柳町誌 編纂委員会 20141115

上記の画像の編纂委員の中に、私のひぃおじいちゃんがいます。初ひ孫ということでずいぶんと可愛がってもらったらしいのですが、覚えていることは、膝にだっこされたことと、ひぃおじいちゃんのお通夜だけという、3歳くらいの時の記憶です。

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